
アメリカで行われた生産性の実験(ホーソン実験)によると、「最高の生産性に結びつくものは、実は外部環境ではなく、人間関係である」という結論が示されている。
人間社会は、利だけでなく感情で動いている。
たとえば、
顧客側の目線では、「この人は信頼できるから、多少コストが高くとも、この人に仕事を任せよう」というふうに.
販売側の目線では、「業務上、これ以上のことはする『義務』はないけど、いつもよくしてもらってるし、『義理』があるから、ちょっとサービスのクオリティを上げるか」というふうに.
人は利だけで動かず、利を越えたギバー(Giver: 与える者)の精神が生み出す、信頼関係が人々の意思決定を大きく左右している。
そこで、多少の譲歩(利益の損失)があっても、相手の感情を優先し、相手との人間関係を良くしていく姿勢が大事である、と俺は父に教わったし、俺自身、それを実践してきた。
しかし、それは言うは易しだが、
「相手の感情の尊重」と「こちらの立場」との間でバランスをとることは、
実際にはかなり難しいんだ。
相手の感情や、立場を優先しすぎれば、単にお人よしと思われ、舐めた態度を取られるケースが多い。一見して不良少年の短絡的な被害妄想や虚栄心にも見えるこの捉え方は、哀しいことに実社会の真理でもある。
性善説にもとづいた相手の善意を信じても、裏切られるのが実社会だ。
「相手はその道で海千山千のプロだから、取引相手を信じ、取引相手におまかせ」「相手はプロなのだから、変にこちらが我を出すよりも、おまかせしたほうが結果として良い取引になるはずである」という態度ではなく、
相手としっかり意見を戦わせることが必要なのであり、
その結果、少なくとも一時的には、お互いの人間関係は悪くなったりもする。
その人間関係悪化に伴う不快感や緊張感を避けてはいけない、それが実社会というものだ。
そうやって意見をぶつけ合って、お互いに傷つきながらも分かり合い、漸進していくものが「取引」というものだ。そのような取引の結果うまれた最終成果をみることによってしか、相手が信頼に足る取引相手かどうかを見極めるすべはない。
最後になるまで相手との真の信頼関係は生まれないんだ。それはちょうど、組み立ててみるまで全体像の見えないジグソーパズルのようなものだ。遠近で全体像をみるためには、結果をみるしかないんだ。
いくらお茶を出そうが、いくら90度の角度で頭を下げようが、いくら金額で譲歩しようが、何をどう代償を支払おうが、その代償が、お互いの信頼関係に還元されるかどうかは、実のところ、保証が一切ない。もしかしたらそれは舐められることに繋がり、ただ逆効果になるだけかもしれないのだ。最後の最後まで相手が信頼に足る人かどうかは、見極めようがないのだ。
最後の最後にふたを開けてみるまでは、こちらの譲歩によって相手との信頼関係が醸成できるということはあり得ない。トラブルが生じ、一時的に対立し、お互いに現実と格闘しながらも、泥で汚れながらもそれを双方が乗り越え、最終的に完成された取引結果を前にするまで、真の信頼関係は醸成されない。
だから、「成果」が目の前に提示されるまでは、本当の意味では相手に気を許してはいけない。
気を許してはいけない。付け込まれる。
神経をとがらせて、相手に自分の要望を粘り強く何度も伝え、時に相手と意見を戦わせながら、相手がどういう態度をとってくるのかを一挙手一投足、観察しなければならない。
その結果、相手が信頼に足る人物ではない、人をみて舐めてくる、と感じた場合には、
今後のより大きな取引をナシにするのだ。
今日、とある地域密着型の小さな工務店が、将来の大きな取引を、1つ失った。
なぜなら、私が、そこを「信頼に足る取引相手ではない」と判断したから。
こちらは低姿勢なようでいて、実際には心の目で相手を観察していたのだ。
次に依頼するときは、個人の大工さんに直接依頼するか、
大きな建設会社に依頼する。
私が、工務店の社長に「これは私と社長さんの間だけの取引ではないんです。」と口にしたとき、相手は「は?」という感じでぽかん、と口をあけていた。
どうも相手は「取引」というキーワードにピンとこなかったらしい。相手からすれば、これは取引ではなく施し、つまり「こちらが施工を提供してやってる側。そちらは頭を下げて、施工をお願いする側。こいつは、ウチに施工を断られれば、困るはずである。」と勘違いをしていたらしかった。つまり、私を舐めていたらしかった。
それは違う。これは対等な取引だ。あなたと私は1対1の対等な真剣勝負をしているんだ。施工に問題があればお金は払えないし、むしろ法的に訴えることも視野に入る。また、今後の一連の施工は全て別の会社に依頼する。こちらには選択肢があるが、あなたには? 人生では、対決が大事だ。対決を辞さない。
500年前は、戦国時代で、日本人同士が殺し合いをしていたんだ。
だがそれは、当時の文明レベルでは自己防衛のために寧ろ必要なことだったのかもしれない。
現代に於いても、現代の文明レベルに見合った戦いが避けられないんだ。
この記事へのコメントはありません。