戦場の落ちこぼれ

人が「理解」と呼んでいるものは、複数のパーツによって構成される全体のまとまりの認識であり、それはゲシュタルトともいわれている。
複数のパーツを全体として見ることによって、各パーツの因果関係がわかり
個々の要素の意味がはじめて理解できてく

理解というゲシュタルトを構築する各ブロックは階層に分かれており、高い階層の概念は、低いそれの上位互換にあたる。

たとえば、小学校にすごく賢い子供

周りから神童と呼ばれているような子だ。

その子は、その世界の中では確かに天才かもしれない。でも、大人の集まりの場にその子が来たとしたら、その子はその場で交わされている大人の会話についてこれない。

幼児に青年の真似事はできず、青年に大人の真似事はできない。

年齢が上がるほどに、思考はより複雑化・抽象化するからだ。

その逆に、大人は青年の真似事ができるし、青年は幼児の真似事ができる。

ピアノを嗜んでいる者がパソコンのキーボードをタッチタイピングするのはお手の物だ、しかしピアノに縁のない方がパソコンのタッチタイピングの努力をどれだけしたとて、不思議と見えない壁にぶち当たるのだ。

受験生は、受験勉強の数学はできる。でも、大学の数学が理解できない。その逆は通ずる。大学の数学を学んでる者は、受験数学を理解できる。

今はやりの流行曲を理解できても、クラシックやオーケストラは理解できない。だがクラシックやオーケストラを解する者であれば、流行りの流行曲など児戯に等しいだろう。どう足掻いても抽象度の低い者は高い者に勝てない。覆せない力関係である。

確かに、音楽で成功するのに必ずしもクラシックを嗜んでいる必要はない。流行曲には流行曲のゲシュタルトがクラシックとはまた別に存在もしている。しかし、物事の本質をみたときに、やはりクラシックを嗜んだ者がよりゲシュタルトの低いもの(例:流行曲)を理解しようとするときに、吸収力や表現力に差が出てくるのは否定しようのない事実だろう。

さて、ここで一度、俺の現状の問題を1つ考えてみよう。

いま俺が悩んでいることは、雑談力がない、ということ。

人を会話で気持ちよくさせる能力が足りない。時間をかけてメールやチャットで文章を打ち込むというようなコミュニケーションなら、それなりにできるが、即興で反応を返していくことがどうしても苦手だ。

俺は配信をしたい。

でも、雑談力が無いため、配信が怖くもある。

この問題を考えるときにも、先ほど述べた「ゲシュタルトの抽象度」で考えれば解が得られる。

ゲーム等の実況配信 < 雑談配信 < 1対1での日常会話

の順に、抽象度が上がっていく。

つまり… ゲームの実況配信をしている人は、普段雑談配信をしている配信者にはトーク力で勝てない。そして雑談配信をしている人は、普段1対1での日常会話をしている人にはトーク力で勝てない。

その逆も通ずる。

普段1対1で色々な人と日常会話をしている人は、雑談配信をいざやってみたときに、意外とすんなり対応できることに自分でも驚くかもしれない。ゲーム実況なんてお手の物だろう。

抽象度が高くなると求められる実践力が段違いであるため、より深い理解を必要とし、そこで鍛えられるからだ。

勝ちたい、と思ったときに、

リングの上で足掻き、もがくのを、やめてみないか?

リングの上でどれだけ四苦八苦してみせたところで、所詮は、その小さな世界の中での「理解」でしかない。プロボクサーは実際の戦場であっけなく木っ端みじんにされるだけだ。

逆に、実際の戦場で白兵戦をしている者は、たとえその戦場では落ちこぼれ呼ばわりされようとも、その「戦場の落ちこぼれ」が、いざボクシングのリングの上に立ったときに、プロボクサー相手に一方的に圧倒できるだろう。

わかるか? 戦場で優等生になれるかどうか、そこは問題じゃない。

問題なのは、「いま、あなたは戦場にいるのか、それともいないのか?」という1点でしかない。俺という人間の強い弱いは問わない、ただ生きてる世界が戦場でないと駄目だ。そうじゃないと人間の潜在的な生命力が引き出されない。

人生の戦場で生きる者は、それ以外のすべてに勝てる。

それなのに、多くの人は俺自身を含めて、自分の狭い世界のなかで戦おうとしてしまう。

たとえばダイエットするために、「よし、ダイエットするぞ~っ!」と意気込んで、日記にダイエットの予定表を立てて、ノートのその計画表のなかで四苦八苦する。鉢巻撒いて顔真っ赤にして、こめかみに青筋を立てて、そのいじましい戦いに仮に勝利したとしても、得られる「理解(ゲシュタルト)」は少ない。

ほんとうにダイエットしたかったら、もっと掘り下げないと駄目だ。

なぜダイエットしたいのかを哲学して自分の内面を掘り下げ、栄養学を学び、運動・睡眠・生き方・考え方・環境すべてにアプローチするとともに、勝負の場を設けて、〇月〇日に、異性に会いに行く、とか、自分がワクワクするような「企画」を自分で自分の人生に対して提案するのだ。その企画力が必要。いや、なんなら日常的に人と接して、外見を評価されるような場所で現実と取っ組み合いをした方がいい。スカイプで顔出し通話とかね。そういう人がする「ダイエット」は、エネルギーが違う。俺はダイエットに興味はないが、これはすべてに通ずる。

俺のいまの問題に話を戻すと、「配信をするために、雑談力をあげたい」ということだった。

それなら抽象度の高い行動をとることだ。

まずはあのサイトで、人と話をする訓練を積もう。1on 1で。

それも、ゲームをしながらとか、映画を観ながら、というのではなく、雑談Only、会話Onlyで、定期的に実施していく。できれば毎日、しかし経済的負担もあるので、あのサイトでのそれは、何日かに1回というのが現実的。
それ以外のお金のかからない方法で、色々な人と、毎日、1on 1の雑談をしていこう。

さらに、例の配信サイトで、雑談配信を毎日やろう。毎日だ。作業雑談配信とかではなく、雑談に特化した配信だ。

もちろん辛いだろう。辛いが、しかし抽象度が高いため血肉となる。

そうやって日々を過ごしてれば、ゲーム配信やお絵かき配信のときにトークで困ることはまず考えられない。だって普段より追い詰められた状況でトークしてることになるんだから。

それと、いちばん良いのは…

この間、ラジオパーソナリティの求人があった…時給は最低自給のパートアルバイト契約だったが…申し込んでみるのも悪くない。採用はされないだろうが…しかし、申し込む、面接を受ける、という行動自体に意義があり、それが、「戦場に身を置く」ということになる。

あとは、「あの人」と約束をしよう。
「いつまで」という期限と、 「なにを」という内容と、「これを得る」という結果の報告・連絡・相談の「ほうれんそう」をしよう。失敗すれば信用を失う。

そして一番大事なのは「企画」だ
自分の人生に対して、自分で自分に企画しよう‥‥
どんな企画なら、わくわく取り組める?

一か月後に俺はyoutubeで雑談配信とお絵かき配信とゲーム配信をする。
動画じゃなく配信だ
視聴者0でいい 力を出し切る
配信がどうというより、その配信によって何を得たいのか?それによって、どう生活や、ひいては人生を変えたいのか、どんな価値を提供できる存在になりたいのか、という部分にフォーカスする。
一か月後、人生がいまの100倍充実してる、そんな日々を俺は手に入れて見せる。一か月後に自分なりに幸せを感じられる毎日を、この手でつかみ取って見せる いま、自分は戦場のなかにいるか?ということを自問自答することを忘れたときに、努力というものは実らないのではないか。

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