今日は最近感じた2つのことについて、日記を書きたいとおもいます。
私はインターネットチャットをやっていて、ある一人の男性と出会いました。
彼は1974年の時点で、既に中学生だったから、ということは50代後半、まあほぼ60歳の方ですね。
私との年齢差はかなりあります。
ですが、なぜか意気投合してしまって…
でも彼、最初は何か不審なことを言ってましたね。「みんなで集まって、一緒にこの世界を旅立てたらいいのに」等と・・・
集団自殺を連想させるようなことを言っていて、最初は警戒していたのですが、話してるうちに悪い方ではないということが分かりました。
まぁ、自殺志願者ばかりを狙った連続殺人など最近世の中物騒ですから、ほんとに警戒はしてたんですけどね。
話していくうちに分かったのは、彼の父親は、その人が中学生くらいのときに自殺してます。
最近はあまり眠れておらず、やることといったら、80~90年代の初期の家庭用テレビゲームだけ…今はプレステ5とか、ニンテンドースイッチとか、いろいろ最新鋭のゲームがある世の中なのに、一日中90年代のゲームを遊ぶだなんて信じられますか?ですが、それらのゲームの存在がですね、彼の心を支えていたようなんです。当時から。 それらのゲームがなかったら、いままで生きてこれなかったと仰っていました。私にも覚えがある。ゲーム、漫画、アニメなど、そういう非生産的な(?)サブカルチャー、これがないと現実が辛すぎて生きていけない人も世の中にはいます。
最近、昔のことばかり思い出すそうです。父親が死ぬ前に、優しく抱きしめてくれた記憶とか…。
親に憎まれていたなら、その親が自殺してもダメージはなかった。しかし、父親は彼を愛していた。母親や、彼の姉よりも、本当によくしてくれた。だから父親の自殺は身が引き裂かれるような痛みだったのであり、それは50代後半になった今も続いている。そうおっしゃっていた。
私は拙いながらも彼を一通り慰めた後で、最後に次のようなことを言いました、
「過去を思い出すというのなら、それが苦しい記憶でない限り、もっと思い出した方がいい。過去を思い出すということは、現在を考えることと同じだから。でもそれを、胸の内に秘めて置かずに、ブログにするなり、他人に話すなりして、誰かに伝えてみてはどうか、と。
感じていること、体験したことを伝えてほしい。
きっと同じような体験をした人もいるし、同じような考えを持ってる人もいる。分かってくれる人もいる。こんな場末のインターネットチャットなんかで断片的にその場の気持ちを吐露する、それだけに満足するのではなく、もっとしっかりした場、ブログとか、何か表現手段をもったほうが絶対に役に立つ。
現にいまこうして、私は貴方の言葉や体験に動かされたし、共感したと。きっと私だけじゃない。
そしてレトロゲーム、これも後ろ向きに考えなくていい。それをプレイすることは過去を振り返るということであり、現在を考えるうえで大切なことだから、どんどんやった方がいい。でも実機で遊ぶよりも、パソコンで遊ぶなら、それを録画して、ユーチューブにアップすることもできる。そうすれば、誰か人とつながることができる。当時のレトロゲームを愛してやまないひともきっと沢山いるはずだから。」
みたいなことを私は最後に言いました。正確に何を言ったのかは覚えていないんですけどね。
全然大したことは言えていないし、全く役に立てなかったかもしれません。ただ、最後に気づいたんですよ。
言ったこと全部、ブーメランのように、自分自身、私自身に跳ね返ってくるということに。
私は神様なんていう存在を信じてるわけじゃないですし、世界の創造主なんてものがいるとしたらその本質は下級悪魔に違いないと思っているのですが、もしもですよ、もし、出来事に何か意味があるのだとしたら、もし親切な神様とやらが存在するとしたらね、
最後に私が、その50代後半の男性に告げた言葉、それはそのまま、私自身に対する、神様からのギフトっていうか、なんか情けのようなものだったのかもしれない。
だって、今の私自身に対するアドバイスとして、すごく適切なことを言ってるんですよ、私自身の口からですよ、その言葉が出るのが不思議。
まるで、自分ではないみたいだ。
そして、私は思いましたよ、世の中にはこんなに頑張ってる人、まぁ言っちゃあれですけど、不幸で孤独な人がいるのだと。自分だけじゃない、いやもっと苦しんでる人がいるのだと。知識としてではなく、感情として、その事実を感じました。だから次の日から納豆ご飯やお茶漬けが美味しくなりましたね。先日たまたま夕食のおかずが足りないときがあって、鰹節にしょうゆと梅干でお茶漬けを作って食べたのですが、その美味しさ、ありがたさ、幸福感を感じました。その50代後半の男性とお話できたことが、自分の中で、そういうちょっとした悟りに繋がったんですよね。
まぁ情けは人のためならず(=すなわち自分のため)なんて言いますけど、本当かもしれないですね。
善意としてはあまりにちっぽけなものだったかもしれませんが、少なくとも自分が出力した分だけのものは、神様が報いてくれる(ことがある)と。
あと、2つ目の話題ですが。
私は豪雪地帯に住んでおりまして、
この間の大雪で車庫が倒壊してしまったのです。
鉄パイプがもう根本からこんにゃくみたいに折れてしまいまして。
車庫なんて別に要らないのですが、まぁあればあったで、除雪作業の負担が大幅に軽減されるということで、建設会社さんに新しい車庫を建ててもらうことになったんですね。
しかし建設会社の社員は殆ど現場に赴かなくて、実際に現場で重要な作業をされてるのはその下請け会社さんなんですね。
いやぁ、驚きました、職人さんたちのプロ意識。
朝8時より前には現場に到着し、車で待機されている。8時にはすでに作業に取り掛かり、休憩もこちらが働き掛けないとなかなかとろうとしない。まぁ一応、10時と15時でコーヒーを差し出してまして、飲んでくれてはいるのですが、それは何か私自身に対する礼儀として仕方なく飲んで下さっているように思います。土曜日でも8時より前に待機されてる。
ほんとに尊敬しますね、あの規律と、あの生産性の高さ。あの妥協の無さ。すごくカッコいいです。
それで、もうひとつ感じていることが今ありまして。それは…彼らが朝から晩まで毎日通い詰めるようになって、私自身の生産性まで一緒に底上げされたこと。朱に交われば朱くなると言うように、人は人に影響を受けるのですね。これまで私服でダラダラと死んだ魚の眼を宿して在宅ワークをしていた私ですが、彼らが来るようになってからワイシャツ着用してしっかり仕事に取り組むようになりました。
そして最後にもう一つ。
それは、嬉しいんですよ、彼らが家に来てくれることが。私のそばで、働いてくれていることが。なぜかって? んー、多分寂しいのだと思います。私は寂しかったんだろう。
何か、嫌なことがあっても、真夜中に人生を思いつめて眠れないことがあっても、次の日の朝には、自宅の傍に職人の皆さんが待機されてるんですよ。仕事への意欲にあふれる職人の皆さんが。これ、ちょっとした衝撃というか、新鮮な体験ですよ。
嬉しかった。
人は、一人きりだと認知が偏る。目の前の出来事の1つ1つに考え方や世界への印象が強い影響を受けてしまう。人と人とのかかわりが重要。
たとえその「かかわり」というのが、直接的に対面して談笑することでなくてもいい。
ただ、傍らで無言で一緒に作業するだけでもいい。それだけでも、大きく、結果が違ってくる。
そんなことを感じました。会社員の方は脱サラして起業を夢見てる方も多いと訊きますが、会社に属するからこそ得られるものもあるかと思います。
私は最近、ユーチューブを始めました。
恐らく誰も視聴者は居ないでしょう、
しかし、何かが変わった気がしております。
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