人生とは確率ゲームなのだろうか?
つまり数学的に最善と思われる行動を機械的にとり続けていけば、一時的に不条理に見舞われたとしても、最後には幸せになれるのだろうか?
サイコロやコインを投げるというような場合であれば、試行回数が多いほど一定の数値に収れんされていく。しかし人生は多くの試行回数が与えられるほど長くは無いし、機会も時間もリソースも限られているのが実情だ。確率的思考をすれば、人生というものがいかに無常であるか分かる。突き詰めて数学思考や哲学思考をしていけば、言ってしまえば、人生は生きるに値しないということがわかる。
コインを10回投げて、ずっと裏、あるいは殆ど裏だったらどうするのか?そういうこともある。11回目で表が出る確率はその時点で相変わらず二分の一だ。問題なのは、10回連続とか10回のほとんどが「すでに」裏という結果になってしまったということなのだ。数学的にそのような状況になる確率が低いというだけの話で、11回目で表が出る確率が変動するわけではない。
何を言いたいか?つまり、科学的思考は万能ではないということ。
成程、確かに、諦めずにサイコロを振り続ければ、良い結果が出ることもあるだろう。
しかし確率思考をする限り、どこかで心が折れてしまう。そもそもサイコロを投げられなくなる。そうすれば確率も何もあったものではない。
それが世界中の人々の実情だ。
大切なのは確率だけじゃない。ツキを信じる心だ。ツキの流れを感じる想像力だ。
それがあれば、どんなに不運が続いても、ゲームを降りずにまたサイコロを振れる。
また、一時的にサイコロを振れなくなっても、心が折れずに済む。休んで、心を回復して、またゲームに向かっていける。
確率思考をしていたら、数学思考をしていたら何が起こるか?もし、スーパーコンピューターの人工知能が、人類を超越したその圧倒的演算能力と数学的知能をもって、人間たち一人一人の未来を予測したらどうなるだろう?恐らく、ほとんどの人間に「貴方は将来、幸せになれない確率が極めて高い」「貴方は生きる価値が低い」という結果がはじき出されるに違いない。そして、確率を信じる限り実際にそうなる。
長く生きれば生きるほど確率思考を越えたもの、
希望とか、ある種の想像力の方が、人生にはずっと重要だということが分かってくる。
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