快楽が正当化されるとき

(この記事は編集・追記されました)

安易に欲望を満たしてしまえることは、危険なことだ。

PS4は欲しいが、我慢しないといけない。買おうと思えば、いつでも買えてしまう。そのような状態にこそ温床がある。その状態に慣れてはいけない。現在とは運命全体の一局面に過ぎず、ポケットに小銭が入っているからと慢心し怠惰に耽ってはいけない その小銭はやがて手から滑り落ちる

在庫残り1点。「いますぐ買う」のボタンをクリックするだけだ。
このボタンをクリックするわけにはいかない。
お金を下手に使うほど頭を使わなくなる。頭を使わなくなれば、他の何事もうまくいかなくなる。今手元にあるもの、身の回りのものを活用して満足するべきだ。

▲欲しかったPS4

小さいころゲームが欲しかったが、買え与えられなかった。

それでよかった。大人になった今、一人遊びが下手になった。

一人遊びできない人間は脳が退化しているのだ。

すなわち私のことだ。

ーーーーーーーーーーー(以下、追記)-------------

考えが180度変わった。
PS4を買うか買わないか、欲望を満たすか満たさないか、ということは極めて些細な問題だと気付いた。

この問題は、クリスマスに贅沢をすべきか否か、という問題を考えることと同じだ。

お金が無く、クリスマスに辛い思いをしている人間は幾らでもいる。そういう人を脇目に、自分だけクリスマスケーキを買ってもよいのだろうか?自分一人だけが、自分の為だけの刹那的な欲望を満たすということは正しいのだろうか?

ある条件下において、それは正しいと考える。

それはある条件下において、むしろ推奨される。

その条件とは、その金の使い方が、投資となっているかどうかということ。クリスマスにケーキを食べるということはエゴだが、そのエゴを満たすことで仕事の生産性が上がり、世の中に貢献できるならば、それは投資だ。

金を使うことが悪なのではない。無条件で与えられることが悪なのだ。すなわち投資とならないことが悪なのだ。

クリスマスケーキを買うこと自体は、単なる快楽主義である。しかし、生産的な条件を設けて、それを達成した後に買うならば、ケーキは報酬刺激となり、長期的には世の中に役に立つ投資として機能する。

もっと分かりやすく言おう。たとえば私が、部屋の中央に突っ立って、一日24時間瞑想し続けたとする。成程、お金は掛からない。しかしそれは誰の役に立つのか?世界にどんな影響を与えるのか?何の意味もない。

世の中にはクリスマスケーキを買えない人間は何十億人といる。私がクリスマスにケーキを食べれば、食べられない人は私を妬むだろう。

しかし、妬まれることに善悪はない。

私を妬む人を私が助ける義務を果たさないことが悪なのだ。仕事で結果を出すこと、生産をすることが正義なのだ。それ以外のこと、つまりケーキを買うか買わないかということは取るに足らない問題だ。

私を妬む人に、ケーキを買えなかった人に、いつか自分が何らかの形で役に立てるなら、クリスマスにケーキを食べることは寧ろ責任であるとさえ言える。しっかり食べるべきだ、食べたいならば、の話だが。

その観点で考えるならば、私はいま、大罪を犯している。 なぜか? PS4も買っていないのに? 節制しているのに、なぜ罪人であるのか?

それは、仕事に熱意をもって取り組んでいないから。仕事を頑張っていないから。

自分も他者も、世界も、誰も助からないから。

全てを見捨てて、見殺しにしているから。

エゴを満たす(=クリスマスにケーキを食べること)で仕事がはかどるなら、ケーキを食べることは寧ろ義務であり責任だ。

だから考えが変わった。PS4(=私にとってのクリスマスケーキ)は、買うことにした。ただし無条件じゃない。

今わたしは、さまざまな問題に直面している。

これらを解決し、取り組んでいることの生産性を抜本的に改善する。そのあとの報酬としてPS4を買うならば、それは生産的投資だ。

ただ、いずれにせよ、今は買わないということだ。

ただ、私がここで言いたいのは、PS4がどうという話ではない。お金というものへの考え方について論じている。お金を使うことは悪じゃない。ポケットのなかの金は使っても使わなくてもいい。問題はそこじゃない。くだらないことで悩んで、肝心の仕事や実生活が破綻しているなら、考え方がずれている。だいたい、資本とは金だけじゃなく、健康や能力や時間もまた資本だ。

無課金だからとスマホゲームで時間を浪費し、

布団の中でスマホで夜更かしして目を傷め、

だらしのない生活で知的能力を損なっている。

そのような生活は、確かにあまりお金はかからないけれども、貧困の未来へと結びついている。お金を使うことを畏れる一方で、時間や体力の浪費や精神的放蕩については何ら躊躇が無い。

ならば、今お金を使おうが使うまいが、私はとんでもない大罪人に他ならない。 

そのような状態を改善するための投資として機能させることができるならば、刹那的快楽を満たすということが常に悪とは限らない。刹那的快楽が、むしろワクチンとなることさえあるということだ。

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