誰も交通ルールを守らない。
もちろん、全てにおいて律儀に厳守する必要はないと思う。それは生真面目というものだ。
たとえば見晴らしの良い一本道では、50キロ制限であっても60キロ程度であれば出しても良いと私は思う。
だが逆に、律儀に交通規則を厳守することが求められる場面もある。見晴らしの悪い場所で40キロ制限の標識があれば、40キロを守って然るべきだ。視界が全て確保できない場合は、「かもしれない運転」だ。それを守れないなら人格障害者か神経症者か発達障碍者か、最悪の場合は知的障碍者ということになる。
それなのに、「規則を守らないといけない場面」でバンバン飛ばしてくる人が多い。そして車間距離を詰めてくる。それなら、どうぞ追い越しして下さい?追い越しもせず、車間距離を詰めてくる人は性格が悪くて、しかも莫迦なんだろう。
そういう奴らが交通事故を起こさないのは単なる運であって、そいつらは運任せで生きてるのと同じだ。恐らく仕事で上手く行っていないのか、育ちが悪くて教養や知性が足りていないか。そういう人は本を読んで感動して泣いた経験があるのだろうか?楽器の演奏を嗜んだことがあるのだろうか?
あと、ここが田舎だからかもしれないが、いちいち車を止めて、運転席から覗き込むように、外を歩いている俺の顔をまじまじ凝視する村人たち…お前らは一体何なんだ…。人をジロジロみるのは失礼にあたると、親から教わったことは一度でもある?学校では習ってない?ならそんな学校はない方がマシ。文化知性教養なすぎでしょ、俺は変人かもしれないが、ある意味でおまえたち一般人こそが本当の意味での変人奇人だわ。俺がそんなにハンサムですかー?彼女募集中ですよー。
スポーツジムのスタッフにもイライラする。
なぜって、嫌々仕事をしているのが伝わるから。嫌ならそんな仕事するな。こっちが迷惑。ジムならジムでの、ファミレスならファミレスでの、そこで働いていることへのプライドとか信念がなく、ただ生活の為に嫌々働いている人たちが多すぎる。
病院で過労自殺した医師もそう。自殺なんかするなら退職してくれ。患者にとって迷惑だそんな医者。医療ミス多そう。ちょっと遠出して行列を並んででも別の病院に行くわそれなら。
ジムから帰る時に、スタッフが「お疲れ様でしたー」と声をかけてくるわけだが、どこか尖った感じでボソボソとそんなふうに声を掛けられても、こっちが不快になるだけ。それなら無理に声かけないでくれないか?こっちに無理に関わってくるなよ、関わり合いになりたくないから。
自分の境遇に誇り、自負心を持てないのか。たとえばファレミスやスポーツジムで働くということは社会に貢献する素晴らしい仕事なのに何でそこで働いていることへのやりがいとかプライドが持てないの?アルバイトだから?アルバイトでも仕事だろう。嫌々であるなら無理に出しゃばってそこで働くなよ迷惑だから。ただ生活の為だけに我慢してやってるのか。そこを利用されるということになぜ気づけない?そんな性格の悪いやつらが経営者に足元を見られて使い棄てられる。そのとき経営者は良心など痛まないに違いない。
車を運転していて感じるのは、
日本はもうだいぶ終わっているなということ。
人間が疲れている。心身ともに。自然環境的、行政的、経済的な理由で、心が腐ってしまっている。嫌々働いている。だから生産性が低く、ゆえに気持ちに余裕がなくて、みんなどこかツンツンしている。
そのツンツンが、たまらなく嫌。そういった人間の感情が大量の情報となって私の知覚に押し寄せてくる。嫌な情報の洪水を私の鋭敏な認知能力は知覚してしまう。普通の人間は脳にリミッターがかかっていて、知覚をシャットダウンすることで社会生活を難なく送ることが可能なわけだが、
私の場合、つらい体験がきっかけとなってその脳のリミッターが解除されているので、どうしてもストレスが強くなってくる。その代わり、芸術創作や表現者には著しい適性があるわけだが。
まあ、行政サービスとか村落とかスポーツジムとかでの多少の不愉快は我慢してもいい。だって、働いている人がいるから、利用者はサービスを享受できる。だから仏教哲学的には、その事実に目を向けるなら彼らに対する感謝の気持ちをもてるはずだから。独りで生きているわけではなく、社会におけるサービスを利用する以上、社会で生きる一人一人への感謝の気持ちがあれば他人の態度なんか気にならなくなる、我慢せよ、というのはまだ理解できる。
だが煽り運転にはどう感謝すればいいんだ?
どの角度からみても、私はそいつらには何の義理もなく、ただただ不愉快なだけ。
今は、我慢しよう。
でもいつか、裕福になったら、運転手を雇いたい。運転は、私には向かない。運転技術の問題ではなく、煽り運転をされた時や、交通ルール無視の強引な運転に付き合わされた時にどうしてもイライラしてしまう。そのイライラを運転には出さないが、帰宅後に色々考え込んでしまう。だって一回の運転で10台くらいは交通ルール180度無視の輩に出くわすんだよ?イライラするでしょ。左折優先なのに強引に右折で割り込んできたり速度制限を20キロも30キロも無視してまで危険な道路で車間距離を詰めてきたり、ふざけるな。俺も育ちはだいぶ悪いが、お前らも大概だな。社会人とはいっても、仕事に対して愛は持ってなさそう。孤独ではないとはいっても、絶対配偶者や子供に対して愛情をもてていなさそう。普通の人、とはいっても、普通の感受性、普通の愛がその程度だというのなら、普通という基準は失笑ものだな。まるで自然界が、宇宙が「われわれ自然体系の代理人として、普通の人を駆逐しなさい、普通の人から搾取して天罰与えて淘汰してください、醜い人間どもの浄化にご協力お願いします、どうかお願いします」と俺につたているかのようだ。要するに、あんな奴らから搾取しても俺の良心は痛まなさそう。かわいそうな人を助けるべきだと思うが、「可哀想な境遇とまでは言えない、ただ生活に追われているだけの普通の人」は絶対助けてやらない。むしろ敵だ。そしてこの発想は社会の至る所でとくに経営者にみられる。たとえばたばこ産業。明らかに体に害と分かっていて何故、タバコという名の大麻を販売する?それは利益率がよいから。そして、民衆が愚かすぎるから、そんなやつらの健康を害しても経営者としてあまり良心痛まないわけだろう。他にはコカ・コーラやマクドナルドとかもそう。ただの砂糖水だけど利益率が高いし、要するに馬鹿相手の商売。民衆の愚かさを利用しているビジネスだそれは。その思想背景にあるのは、いわゆる「普通の人」に対する(経営者の)失望、がそこにはある。普通の人の愛情や感受性や教養の欠如に対する、深い失望。それが背景となって、普通の人に対する良心の欠如(ただし法律の範囲内で)、という方向に向かっていく。その一方で、社会貢献活動、とくに「可哀想な境遇の人」への支援はしっかりしている。その一見して矛盾している行動を、「経営者による、一般人への失望」という観点ですべて説明できるわけだ。要は、そういう経営者って、普通の人より感受性豊かなんだと思う。だから醜いもの(=一般的な民衆)から搾取し、助けるべき人たち(=辛い境遇に置かれているひと)を助けようとする。その気持ち、俺にも分かる気がする。その思想は俺にもある。ある意味、この思想を持ってるだけで既にチャンスだと思う。
あと、金持ちになったら、運転スタッフだけでなく、スポーツジムに通わなくても済むよう、自宅に運動部屋を作って、そこにトレッドミル(ランニングマシン)を設置しよう。トレッドミルは業務用の100万円くらいのやつじゃないとダメだ。中途半端なトレッドミルは洗濯もの干し竿になるだけだ。
あとファミレスに行かなくても済むよう、ファミレスみたいな台所と、調理できる人を雇用する。
あとピアノは絶対にグランドピアノを設置しよう。そして音楽と音楽の普及に使命感をもってる先生を自宅に招いて個人レッスンしてもらおう。
あと、別に高級車でなくても、軽トラックは嫌だなー。軽トラックだと、煽られ率が高いのは客観的な事実だ。所詮は動物社会で人間は弱いものに自分の攻撃性をぶつけるDNAの本能が備わっている。私は、人間の本質を見抜いている。小さい車や軽自動車は、煽られる。黒くて威圧感がある、それなりに大きな車がいいな。
今は軽トラックで我慢するしかないが。
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