今朝、ニュースでハーバード大学に現役合格した18歳の方が特集されておりました。
普段であれば、私は「この人は努力したには違いないけれども、どうせ良い環境に恵まれていたのだろう」という僻みの感情を抱いて、テレビから視線を反らしていました。
しかし、そのような考え方では、そこからそれ以上何も学ぶことができない。僻みをやめて、適切な模倣をすれば自分にも同じようなことが達成できるという前提で、何か学べる部分はないだろうかと、食い入る様にその番組を観ていました。
そうしたら、彼が興味深いことを言っていました。英語の習得に関してです。
曰く、
「これから英語を学ぶぞー」と真面目にガツガツ机に向かうというよりは、まず最初に外国の方と話す。具体的には留学生同士が集まるフォーラムなどの場に赴き、そこで拙いなりにも色々と会話して、その会場を出るころに少し英語力が上がっている。そういうことの繰り返し。
そして、英語が喋れない状態から、いきなり英語での討論に参加する。そこでは誰かになりきって、英語で自分を説明するというような課題を与えられる。たとえば「ロシアの運輸省になりきって、どうすればロシアの交通状態を改善できるのかということを説明する」。
この課題をこなすために、英語で運輸のことを調べたり、それをどう話すかを必要に応じて学ぶ。そういった課題をこなしながら英語力が上達していった。楽しいことをやっていたら、いつの間にか、今の立ち位置にたどり着いた。
彼の努力の特徴は、「最初にアウトプットから入って、フィードバックを受けて、そしてそれをインプットに活かす」。これは最近読んだ高速仕事術という本にも同じことが書かれていました。
私も英語を学んだことがあるのですが、結局挫折しました。私が挫折した原因は始終一貫してインプットばかりだから。だから、私は英語が話せないのだなぁと感じました。最初に机に向かってガツガツ英単語や英文の精読をしてしまう。目的もなく英語のシャワーをただ浴びようとする。
それらは全てインプットであり、アウトプットが伴わなかった。だからドーパミンも得られない。当時の私としては、「アウトプットしようにも、アウトプットできる『蓄積』がないのだから、アウトプットしようがない」という状況に置かれている、と考えていていたんです。
しかし、それは勘違いだったのかもしれません。
アウトプットに必要となる『蓄積』というのは、数日程度で十分だったのかもしれない。そんなことよりも、インプット(自習)とアウトプット(フィードバック)の回転の回数を増やすことの方が、重要だったのかもしれません。アウトプットからの失敗があることによって、軌道修正が行われ、インプットの精度が上がっていく。ずっと安全地帯でインプットをしていたから(というか、そうせざるを得ない状況、たとえば社会的孤立や対人緊張等があったのですがね。言わせてもらうと。当時は家が大変な状態でお金も無かったですし。)、間違った努力を延々とだらだら続けてしまう。当然ドーパミンは増えるどころか減る一方でした。私は英語力ゼロの段階から最初に外国人と週一回カフェで会話するべきだった。もっともっと外国人と話すべきだった。それはもう、本当に最初から。話せなくても、恥をかいても、何を言っているか一切分からず、ハロー以外に何も言えなくても、それでも。こうして考えると、先述の、ハーバード大学現役合格の方は、成功すべくして成功したのであり、私が英語に挫折したのは、挫折すべくして挫折したと言わざるを得ない。初めから努力のスタンスが根本的に異なっている。もし人生をやり直せて、また英語を学ぶことができるなら、誰が何と言おうとも、私は絶対に外国人の方と突然会いますよ。突然話しまくりますよ。そして毎日スカイプ英会話やりますね。毎日恥をかくことを選びます。同じことを私は今、絵でやろうかと。
私は今、かなり鬱状態にあります。色々考えて、ある結論に達しました。「無理をせず、少しずつ努力していこう」と。要はエネルギーの節約です。
「自分は鬱状態である」→「だからエネルギーが少ない」→「だから無理はできない。普通の人のようには頑張れない。」→「長い時間をかけて、習慣を育んでいき、脳を最適化させていく」→「その後、結果として、エネルギッシュになれる」という戦略でした。
しかし、そうではないのかもしれない。
鬱であるということが事実なのだとしても、要はそれはドーパミンが不足した状態ということです。というのも、面白いテレビゲームや麻雀などであれば、一日中それをしていられます。それは、それらの対象でドーパミンが出るからです。
要はドーパミンの総量が増えれば、人は突然エネルギッシュになれるのではないかと。
長い時間をかけて少しずつ何かを努力していく、ということは間違いなく有効なやり方と思うのですが、長期スパンではその方針を持つべきですが、短期スパンでの戦略が別に必要と感じます。
たとえば今から毎日30分ずつ絵を描いていって段階的に少しずつ負荷を上げて1年後にどれだけ成長できているか疑わしい。後退はないでしょうが進歩も緩慢です。
そして進歩が緩慢ならドーパミンもあまり出ないため、結果的に習慣化も起こらないのでは?むしろ習慣の形成にこそドーパミンが必要とされる気がします。
それよりも最初のスタート時点から、ドーパミンのたくさん増えるようなやり方で、それを始めていくということが有効であると思われます。
そのようなシステムを実現できるのであれば、最初から何時間でも頑張れてしまうのでは。テレビゲームだってそうですから。
今私が考えているのは第三者からフィードバックを受けること。そのための予算を生み出すために、趣味で始めようとしていたyoutube動画も、きっぱりと止めました。
Youtubeは凝ったものを作ろうと思えば、お金が掛かってしまいます、AdoveCreativeCloudは毎月6千円かかりますし、海外の動画素材サイトEnvetoも月3千円かかります。そもそも一体何故、たかが趣味の動画にそこまで力を入れようとしていたのか。それはドーパミンが足らな過ぎたから。絵に対しても、生活や人生に対しても。何かワクワクすることをしたかったんです。「したかった」というよりも、「必要性」に迫られていたのです。鬱が強く、精神的危機でした。デジタルな空間に居場所が欲しかった。
それに、私は動画の中で、絵を描いていき自分の生活に「第三者に絵を見られている」という緊張感を創り出そうと思っていたのです。緊張感、ある種のストレス、それも生活から抜け落ちていると思った。私はこれまで、人一倍、強烈な緊張感に晒された人生でした。もう神経はクタクタなのです。糖尿病患者がつねに血糖値が高くて糖質への感受性が高いように、私の場合は「緊張」がつねに解除されず、ちょっとした刺激でもすぐ興奮してしまう。普段、締め付けの緩いクタクタの服を着ているのも、そういう理由です。
私にとって緊張は普通の人以上にストレスとなり、地雷そのものでした。だから余計な緊張を避けていました。しかし、そうではない。たとえ私のような「神経的に障害のある」人間であっても、緩やかな緊張は脳を活性化させるのではないか、と考えました。それは太陽光のようなもので、放射能も、生命を育む太陽の光も、波長の出力が違うだけで、結局は同じ波動なんですよね。
幼稚園児も適度な緊張感に晒された毎日を送っている。
だから緊張感を生み出すという意味でも、社会と接点を持つ必要があり、それには動画で絵をみせるということは有効と考えました。
まぁそういうわけで動画計画を推し進めていましたが、事情が変わりました。もっと良い方法があるということに気づいたので。
それよりももっと単純に、直接、絵を人に見せてアドバイスをもらえればいいだけで、そっちの方が遥かに効果的に緊張感とドーパミンを生みだせるという結論に達しました。投資するならそっちですね。
まぁ流石に突然何時間も、というのは無理し過ぎのようには思います。「毎日少しずつ続けて習慣化を狙う」、という長期方針と、「最初からドーパミンが沢山得られるようなシステムを開発して最初から集中的に一定量努力していく」という短期方針を足して2で割る感じにする予定。
やり方によってはお金は掛かりますよ(一般の日本人学生ほどではありませんが)。
でも、だから? 私は今じぶんの命を浪費している。カネの投資で命を節約できるなら安い。
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