マッチ売りの少女がプロサッカー選手になれない理由

貴方がプロサッカー選手だとします。

寒天の空、街を歩いていたらマッチ売りの少女と出会いました。そして出合い頭に、「プロサッカー選手になりたいから指南してほしい。」と懇願されたら、どうしますか?

マッチ売りの少女がプロサッカー選手になるにあたって、どのようなコーチングをすればよいでしょうか?

サッカーのルールから教えますか?ボールの蹴り方や、細かな戦術から教えますか?

それは違う。

サッカーという概念は脇に置いておいて、まず筋力と体力を抜本的に改善させようとするのではないでしょうか?骨と皮ばかりの弱り切った少女にサッカーなど出来ませんし、無理にサッカーを仕込んだところで焼け石に水。それは喩えるならば、穴の開いた器に水を注ぐようなものです。体力・筋力という名の受け皿がなければ、どれだけサッカーを詰め込んでもあまりに吸収率が悪すぎるでしょう。

というより、そもそも、マッチ売りの少女に足りないものは、果たして筋力や体力だけでしょうか?たとえば、マッチ売りの少女に衣食住のみを与え、「まず筋力と体力をつけろ。一か月後、また様子を見にくる」と助言したとします。

さて一か月後、マッチ売りの少女はどうなっているでしょうか?部屋の片隅で体育座りして、灰色の双眸で虚空を見つめているのが目に見えています。この哀れな少女に不足しているのは衣食住と筋肉だけではなかったのです。何かもっと根源的なもの、もっと基本的なもの、生きる上での土台、そこから鍛えていく必要があるのではないでしょうか。

マッチ売りの少女には先ず建設的な条件付けが必要でしょう。すなわち、「秩序」と「報酬」です。

だから先ずカリキュラムのようなものを組んで、時間割に沿って生活していくことが求められる気がします。

部屋の掃除や調理や早寝早起き等の、基本的な生活能力を体力と同時に改善していかなければならない。

そのためにも、適切なタイミングで、報酬を、与えなければならない。この報酬(快刺激、脳神経細胞への電気刺激)というのが難しい要素で、それが強すぎてもダメ、しかし刺激が弱すぎても脳がウンともスンとも言わない。精神論ではなく、生理学的に、脳に電流が必要なんですよ。あるPTSD患者の脳に侵襲性の電極を埋め込んで電流を与えたところ患者の症状が改善し多幸感が増し学習能力が増しました。人は快刺激によって熱エネルギーや化学エネルギーから電気エネルギーを生成でき、その電気エネルギーによって脳が機能する。現実がそうなっているのだから精神論とは無縁です。ただ電気エネルギーだけを外部から受動的に与えるというやり方は根本的に問題を解決しない。その対象に依存し、それを失ったときにプロセスを再現できず廃人になる。また、瞬間的な強すぎる快刺激は、それよりも弱い快刺激に対する感受性を麻痺させて、脳が慢性的不快感状態になる。

単純に言えば、マッチ売りの少女には生活に楽しみが必要。じんわりと長く継続する適度な、自己表現型の楽しみです。それはサッカーに関連したものである必要はない。というより、サッカーに関連させようとすること自体無理がある。むしろサッカー番組など観ない方がいいくらい。相対的はく奪といって、自信喪失になるため。あらゆる意味で、サッカーという概念を一旦脇に置いた方がよい。

上記をまとめると、マッチ売りの少女の課題として、

・サッカーうんぬんは、一先ず忘れる

・体力と筋力を高める

・生活に秩序をつくる

・脳に適切な快刺激を与える=戦略的に趣味を持つ

上記が達成されたうえでの、サッカーの指導があるべきです。

これを絵に置き換えても同じです。「絵の描き方」「絵のポイント」「絵の知識」といったものは、素人の段階では焼け石に水です。

考えてもみて下さい、たとえば私が斜め上の角度からの人間の全身絵を描いたとします。それをプロに修正してもらえば、その角度で見栄えの良くなるアドバイスが貰えるでしょう。

しかし、「その角度」の話ですよね。全く同じ角度、全く同じ視点から毎回似たような絵を描くというのはあまりありません。絵を描くたびに、アイレベルもパースも何もかも変わりますので、パターン暗記的なテクニックでは対応できなくなります。一定の技能が既にあるなら、1つのパターンから応用ができますが、素人では意味が無い。

この真理は、語学に例えれば更に分かりやすく理解できます。ある英語学習者が、英作文を書きました。そしてそれを、プロの翻訳家に添削してもらいました。そうすると次のようなアドバイスが返ってきますね、

「ここは普通こういう言い方はしないかな、この部分は回りくどいから、もっと簡潔にした方がいい、ここは文法が違うのでは?」

しかし毎回同じフレーズを使って生活しますか?ある一つの英作文を完璧に修正したからといって、それはその紙の上で結果論的に完璧というだけであって、頭の中は特に英語能力が上がったことにはならないですね。第一、キリがないですよね、「タクシーに乗る時のセリフを添削して」「洗濯機が壊れて業者に依頼するときのセリフを添削して」「お隣さんに騒音の苦情を言うときのセリフは?」 キリがありません。

ところが、日本人が、「お隣さんに騒音の苦情を言うときのセリフ」を日本語で学ぶという場合、これは大いに役に立つと思いませんか?

「敬語のプロ、日本語の達人」に、日本人が日本語の応対を日本語で学ぶ、これは大変に参考になりますね。それはなぜでしょうか?師匠が日本語の達人だからでしょうか?いや、というよりも、貴方が日本語ペラペラだからです。日本語に長けているからこそ、日本語でのワンポイントアドバイスから様々な言外の情報を抽出し抽象的概念として学習することができる。でも全然理解できていない言語、たとえば英語に関して、英語の指導をもらっても、それは小手先のその場しのぎ対応に終始し、その指導を本質的な意味で活かせない。

それは指導者の問題というよりも、学習者に基礎という受け皿が無いことが真の原因です。マッチ売りの少女の喩えでは、体力と筋力が無いからサッカーの学習効率が悪いのと同じです。

絵に話を戻します。絵でも全く同様で、素人が誰かに教えを乞うても、無駄とは言いませんが、効率がよくない。費用対効果というコストパフォーマンスが悪く、期待値極小。それは生涯学習レベル。

個別の要素を逐次的に指摘されても焼け石に水。

だから独学で良いという結論になる。

マッチ売りの少女は体力と筋力が必要という話をしました。

絵における体力と筋力とは?

筋力は回数や時間よりも「負荷」がモノをいいます。絵で言えば、「右脳への負荷の強さ」です。筋トレばかり長時間していたら逆に筋肉が損傷して筋肉量が減ります。一方で、負荷が弱すぎるトレーニング、たとえば一日10時間うちわを仰ぎつづけるというような筋トレでは、時間だけ見れば10時間と職業的なレベルですが、しかし死ぬまで筋肉が満足につきません。適度な、ある程度強い負荷を、短時間、しかし継続して行う。

私の仮説ではそれは(東洋デッサンにおいては)クロッキーにあたると考えます。右脳を毎日、「適度に酷使する」。少し日本語としておかしいですが、要するに右脳に余力を与え過ぎない。「毎日適度に右脳が疲れている状態、適度な負担がかかっている状態にする。逆をいえば、それが実現できれば時間や回数は短くていい。というより短くならざるを得ない」

西洋デッサンにおける筋トレは、着色のクロッキー(該当する専門用語、固有名詞を知らない)。

話が二転三転してまとまりにかけますが、また英語の喩えをだします。英語学習ではイマージェン法という有名な学習方法があります。これは一定期間、母国語を完全に遮断し、大量の英語のシャワーを音声と文章で浴びることで爆発的な勢いで言語を習得するという方法です。私はこれを絵にも当てはめてしまって、「絵も英語のように、一定期間右脳ばかりを使い続け、左脳を封印する必要があるのでは?つまり毎日10時間右脳だけを使って、左脳が活性化するようなこと、たとえば読書や考え事や…そういった左脳的なことを一切合切、しばらく封印すべきでは?」と考えたことがありました。ただ、恐らくそれは、半分正解で半分外れかな、と。

そもそも外国語学習における「多聴・多読」とは、「マッチ売りの少女理論」における「体力」に相当するのであり、「筋力」ではなかった。

筋力が時間や回数ではなく「負荷」を司るのに対し、体力は負荷ではなく「時間と回数」を司っている。たとえば、散歩、ウォーキングを考えてみて下さい。歩くということは、負荷はありません。歩くこと自体は精神的にも体力的にも、ぜんぜん辛くありませんよね? 全然辛くないことを、ただ1つの制約に基づいて実行するだけです。その制約とは「一定の時間をかけ一定の歩数を歩く」それだけです。そのことによって筋力は上がりませんが、体力は上がります。それが続けば、やがてはジョギングに移行してもよいでしょう、しかしジョギングでも基本は同じ。負荷を抑え、時間や回数を増やす。外国語学習における多読・多聴でも、ただ英語のシャワーを浴びるだけ。その意味を考えない。細かく分析したら脳に負担がかかりますよね?脳に負担がかかるということは「筋トレ」に相当しますよね。そして筋トレは長く続かないわけです。ただひたすら、頭を空っぽにして英語を流し読みし、英語のマシンガンを耳に入れるだけ。それは二本の足を機械的に交互に動かす散歩のように、負担のかからない事務作業です。もちろんそれだけでは英語は喋れるようにならないけれども、基礎力ができます。その後で脳に負荷のかかること、つまり内容理解や英単語の暗記といったようなことをすればいい。つまりイマージェン法の本質は「基礎体力の向上」だったわけです。イマージェンにおいては筋力は除外されていたわけです

絵においても、筋力と体力を混同するというような過ちを犯すべきではない。「筋力」を鍛える負荷のかかる訓練を取り入れている時点で、それはイマージェンではないので、外国語学習におけるイマージェンと絵の訓練を単純比較して考えるべきではない。

以上から、右脳だけを酷使して左脳を生活の中から一切締め出すというやり方が不適切であることがわかる。むしろ、右脳に毎日一定の負荷を与える以上、右脳を休ませる時間が必要という意味で、左脳的な活動を少しでも意識して取り入れるべきだ。

それでは体力の面ではどう考えているのか?

マッチ売りの少女理論における体力にあたる部分。クロッキーやクロッキー的デッサンが右脳の筋力なら、右脳の持久力を鍛える訓練とは?

右脳のウォーキングにあたる訓練とは?それは簡単で、クロッキーの速度を遅くする。時間をもっとかける。1分クロッキーが筋トレだったなら、5分クロッキーにすれば持久力を主眼とする訓練に切り替わる。あとは好きなモノの落書き。頭の中のイメージをそのまま出力。右脳を使うということと、右脳に負荷がかかるということは同義ではない。ただこれは「時間」「回数」がモノを言うので、そこは注意しないといけない。ちょっとスキマ時間でやる、というのでは効果があまり期待できない。一日5分散歩しても体力があまり伸びないのと同じ原理だ。

長文となり過ぎたので、これ以上の冗長化を防ぐため話をまとめる

・右脳への負荷の強い訓練を線画・着彩の両方で「短時間」しかし毎日行う

・上記に合わせて、右脳への負荷は殆どないが右脳の持久力を向上させる作業(多くの場合、上記を簡易化したもの)を毎日行う

それでは最後の検討事項、マッチ売り少女理論における「秩序と戦略的快刺激」について。

両者は歯車の両輪であって秩序と刺激のどちらが欠けてもだめだ。ただ快刺激といっても建設的なものとするには、そこにもやはり一定の「体力と筋力」が必要となる。それはその分野でいうところの筋力と体力のことだ。当然分野ごとに基礎力が意味するところは違うのだから。たとえば日中訓練を頑張って夜間に息抜きに楽器を演奏するという場合。楽器の演奏技術にはそれなりの基礎力が求められる。練習曲の機械的な鍛錬が体力で、その表現方法が筋力に相当する。

そこまでやって初めて楽器の演奏で十分な快刺激が得られる。楽器は一例にすぎず、料理なりゲームなり、色々な趣味が世の中にはあるが、自己表現型の快刺激によって秩序を形作っていくことができる。テレビの視聴やオンラインゲームといった受動的で瞬間的な快楽は秩序をむしろ崩壊させる。能動的なものでないといけない。

そこから言えることは、快刺激を得るにも快刺激用の訓練が必要ということだ。そうでないとマッチ売りの少女は秩序など放棄してサッカーの夢も諦めてタバコや非行のような問題行動をすることによって刺激を補填するようになるだろう。

したがって、「右脳の筋力強化・持久力強化」といった職業訓練と並行して、「適切な快刺激を受け取るための趣味訓練」も同時進行させないといけない。そのためには職業訓練だけで1日のエネルギーの全てを使い切らないこと。ただでさえマッチ売りの少女は生活態が不安定になりがちで、いつ何が起こるか分からないというような境遇にある。職業訓練をするにしても、かなり余力を残しておかないとだめだ。要するに無理は禁物(「無理」は筋力をつけるうえで不可欠だから、短時間だけは毎日「無理」をする必要はでてくるという話)

よって、包括的な基本的生活力の底上げから始めるということになる。

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