皆さんはテレビゲームをやりますか。
私は15年前に発売された、やや旧型のゲーム機を持っております。
本当は、最新型のゲーム機が欲しいのです、そして、それを買える程度のお金もある。
けれども、ふと、ある考えが頭をよぎりました。自分は果たして本当に、テレビゲームが好きなのだろうか、と。
テレビゲームが好きなゲーマーなんて、本当は一人もいないのではないでしょうか。
他に何も楽しみがないから、仕方なく、ゲームをしている。それが大勢のゲーマーたちの実相だと私は思います。
勿論、世の中には真のゲームマニアもいるでしょう。しかしそういう人は、ゲームに限らず、そもそも色々なことに興味関心があって、彼らにとってゲームはその一つでしかないのだろうと思います。私は、ゲームでしか刺激を得られなかった。ゆえに、私はゲーム好きではない。単に刺激が欲しかっただけなのでしょう。
趣味を持つということ、何かを好きになるということ、それは、何事にも興味関心があり、何事にも熱中できるような、健全な脳であるからこそ、可能なことだからです。
自分が習慣的にやっていること、それは本当に趣味であるのか、それとも単に逃避したかった・刺激が欲しかっただけなのか、よく考える必要があります。
私はテレビゲーム以外に、あまり生活の中に楽しみがありませんでした。いえ、正確には、刺激を感じる感受性が不足していました。しかし、テレビゲームは、インスタントな刺激を与えてくれる。だから、テレビゲームをしていた。しかし、そのような漫然とした、受動的な態度でテレビゲームをしていれば、やがて、飽きてきます。刺激への慣れがくる。だから、新しいゲーム機が発売されるごとに、買い替えていくことになります。プレステ3、プレステ4、プレステ5、プレステ6‥‥ 外部の刺激はこのようにしてどんどん強くなりますが、それとは真逆に、自分の内側にある「刺激を感じ取る力」、「楽しいことを楽しいと感じる力」、「幸せを見出す力」は、どんどん衰えていくのかもしれません。
そういう脳の状態では、他の何事にも熱中することはできない。例えば、自分の仕事や、日々の生活、絵に対しても、本当に打ち込むことができない。
今、次世代ゲーム機を買っても、何も変わらない。また新たな、より強い刺激を求めて、依存していくだけ。依存すればするほど、自分の足では立てなくなる。自分では生きていけなくなる。やがては、プレステ7を常に両手両脇で抱えていないと、不安で不安で通勤電車にも乗れなくなる時が来る。
いま、家庭用ゲーム機は、さらなる進化を遂げようとしています。VR(Virtual Reality、仮想現実)といって、新時代のゲーム機は、もはやテレビ画面を必要としません。ヘルメットのようなもので頭部全体を覆うことで、視覚を完全にゲームの世界に接続してしまう。
どんな境遇のどんな人でも、ヘルメットを着用すればだれでも、即座に、どっぷりと脳内麻薬を享受できる。
一見して便利なようですが、やがて、そのヘルメット無しでは、活き活きと生活できなくなる気がします。他の色々なことに意欲があって、そのうえでゲームもする、というのなら、それは真のゲーマーでしょう。しかし、ゲームやパソコンしか生活に楽しみが無い、というのは、厳密にはそれはゲームやパソコンが好きなのではなく、身の回りに刺激を見出したり、刺激をみずから創りだす力といったものが衰えてしまっているに過ぎない、つまり薬物中毒者同然、廃人であるというだけだと思います。
それが、今までの私であったようにかんじます
だから、PS4を買おうとして、いつも手が止まってしまう。買いたくても、この考えが邪魔をして、なかなか買えない。
今手元にあるPS3、これは15年前の旧型なのですが、本当にゲームが好きな人間なら、このPS3に楽しみを見出せるはずではないでしょうか。PS3のような古いゲームソフトなら、500円で手に入ります。
そうしたゲームソフトは、「刺激」が弱い。要するに、つまらない。
だから私にとって全く魅力的ではないのですが、その500円のゲームに熱中できないなら、PS4もPS5も一切やらない方がいい。
そしてPS3の古くて詰まらなくて面倒なゲームソフトに楽しみや攻略法を見出せるなら、他の色々なことにも、楽しみや攻略法を見出していく脳力が発達するかもしれない。
たとえば読書であったり、楽器の練習であったり、ボードゲームの戦術研究であったり、運動や掃除や早寝早起きであったり、全部に相関している。
そのような脳の状態が、絵と向き合ううえで、何も影響を与えないはずがありません。絵を描く脳と、ゲームをする脳で、脳が2個あるわけではないからです。脳は1個だけが、頭部にある。
私は、そう考えます。
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