私の認知の歪み レンガバイアス

最近、私はあまり毎日を頑張れておりません。何をするにも億劫で、元気がなく、疲れやすく、集中力も途切れがちです。

どんな人でも正しく日常生活を送ることができていれば、期間の経過とともに成長していくはずですが、私はいつからか、ずっと同じところを回っているような気がしています。

原因は幾つか即座に思い浮かびましたが、そのどれもが本質的なものではないように感じ、じっくり考察してみて、1つの答えに行きつきました。

それは、自由過ぎるから(行動の縛りが無いから)だと思うのです。自由過ぎるために、気分に任せて好き勝手な行動をしてしまう。その結果MP(マジックポイント)が枯渇してしまう。そのせいで行動不能状態に陥っているのだと思います。MPとはロールプレイングゲームになぞらえた表現の喩えです。

ロールプレイングゲーム(RPG)では、プレイヤーは攻撃や防御などの動作に加え、魔法を使うことができます。攻撃や防御はヒットポイント(体力)さえ残っていれば際限なく選択可能なのですが、魔法の使用に際してはMP(マジックポイント)を消費しなければなりません。

人の一生もRPGゲームのようなものだと、最近つくづく感じます。

要は、MPという限られた認知資源を顧みずに魔法を連発してしまう。だから魔法が使えなくなる。その結果、いつまで経っても敵を倒せず、したがって経験値も増えず、何年経ってもレベルが上がっていかない。いつまでもゲーム開始時点の始まりの村から先へ進めない。

MPの回復に必要なのは、ゲームで言えば宿屋に泊まることです。さっさと夜早めに寝ることで体力と同時にMPも回復できますね。RPGゲームでも、体力やMPが尽きたら宿屋に行きますが、日中の冒険や敵との戦闘でストレスが溜まったからといって宿屋で夜更かしや残業などはしません(そもそも日中の行動自体が雑魚敵との戦闘やお使いクエストなど、程よい難易度なのでプレイヤーにストレスなんて溜まらない。やり残した冒険クエストも次の日にやればいいだけ。そもそもHPやMPが尽きた状態でフィールドに無理に出ても何にもならない)

それでは、MPの絶対値を増やすには?これも簡単な話で、操作しているキャラクターのレベルを上げればいいだけです。レベルを上げるには雑魚敵を倒して経験値を稼ぐ必要があります。

つまり、

雑魚敵と戦う→「攻撃」や「魔法」コマンドを選択する→雑魚敵を倒す→体力やMPが減る→無理せずこまめに村に戻って宿屋で早めに休む→回復→雑魚敵と戦う、のループです。

このサイクルによって、

1、「継続的に魔法を使うことができる」

2,「魔法エネルギー量の絶対値が上がるので、もっと高度で複雑な魔法を使えるようになる」

以上の結果、

「より強い敵を倒せる」

「これまで行けなかった場所、新しい町やダンジョンに行ける」

「ストーリーを進行できる」

ということが実現できます。そこで得られる達成感が快楽であるから、プレイヤーはよりゲームにのめり込むようになるので、さらに好循環が生まれます。

これがテレビゲームの仕組みです。

そして、どうやら人生の仕組みでもあります。

レベル1の段階から、しかも「どく」「まひ」などの状態異常になっているのにも関わらず、習得してもいない高度で複雑な呪文を連発する。その結果、つねにMP不足で、「魔法を使う」というコマンドは画面から消えてしまい(=無気力、集中力の欠如)、「攻撃」「防御」しか選択できなくなる。そのせいで雑魚的すらも倒すことができず、いつまでもレベルが上がっていかない。

さてその仕組みは分かりました。

しかし、そもそもなぜ、このような事態が起こるのか。それは

1「自由過ぎるため」

2「情報過多(からの劣等感)」です。

小学生は、毎日を時間割管理されており、自分のその時の気分で好きなことができるわけではありません。気分によって、「もっと算数がしたいな」「国語は嫌だから体育をしよう」という自由行動はできません。何かしら行動に制約があって、色々なことを少しずつするようになっています。そしてそれこそが、MP枯渇の安全装置(セーフティネット)の役割を果たしているのだと思います。

というのも、どんな行動も少しであれば、MPの消費コスト0だからです。

気分が億劫でも、掃除を5分だけならできますし、寝不足で体調が悪くても5分だけなら何でもできるはずです。

なら、なぜそうしないのか?それは、「そんな短い時間だけ何かをしたところで、何の意味もない」ということが分かっているからです。5分絵を描いただけで何の意味がありますか。5分運動しただけで何が変わりますか。そんないじましさを晒すくらいなら、一切何もしない方が、まだマシだと考えていました。

しかし、よく考えてみたら、それは思い込みでした。たとえ5分であっても、何かを継続するということは、長期間では途轍もない破壊力になると気づきました。

ある行動を5分でも継続していくことにより、その行動を5分以上する場合でも、技能レベル(プレイヤー自体のレベルとは違う)が上がって、そのMP消費コストがどんどん少なくなっていくようです。さらに、その魔法技の威力(=集中力、生産性)の数値が少しずつ向上していきます。つまり、同じ技を使えば使うほど、消費コストが0に近づいていき、技自体も強力になっていく。

今、私という人間はすべての魔法技の消費コストが限りなく大きく、そして、その威力や命中率自体は限りなく低い状態にあるため、魔法なんて使わない方がいい。しかし、全く魔法を使わなければいつまで経っても、技能レベルが上がらず、またプレイヤー自体の総合レベルも上がりませんので、戦略的に、計画的に、選択的に、管理された状態で魔法を行使していくこと。そしてこまめに休むこと。また、レベルの違う他のプレイヤーと比べないこと。 これが必要なのであり、そしてそれが人生において実践できている典型例が、小中学生であるように思います。

時間で区切る。色々なことを少しずつにする。上級生や大人とは比較しない。大人も同じスタートラインで参加する運動会なんて聞いたことがないでしょう。

小学校の段階からそれに慣れておくことで、中学校では同じ学科の時間数や難易度を増やしても、集中力が追いついていく。同様にして、高校、大学、社会人と、各パラメータの技能レベルとプレイヤーレベルが上がっていって、できることが増えていく。

だから小学校はRPGゲームのようなものだし、これは何も学問や社会性などに限らず、人生のあらゆる局面、あらゆる物事に対しても大概言えるかと思います。

私の認知上の欠点は、レンガを1つ1つ積み重ねるようにして巨大なピラミッドを建造しようとしてしまう点です。要するに、理想は高いです、それに、確かに計算上は、レンガを重ねていけば、いつかはピラミッドになります。しかし私が見落としているのは、そもそも、「レンガ」なんていう都合のよい物体、人生のどこにも無い、という真理です。あの幾何学的な、硬くて扱いやすくて、美しい物体は、人生のどこにも見出すことはできない。完璧な立方体なんてない。どこかが歪んでしまう。それが構造的欠陥となり一定量ですぐに倒壊します。それがわかると今度は、当初の目的を忘れて、「完璧なレンガ」を追い求めるようになります。そして、1つのレンガの出来栄えに神経質に拘り始めます。最後にはピラミッドを作っていたのか、レンガを作っていたのか、あるいはレンガの元になる最小単位としての土くれを作っていたのか、分からなくなる。

大体において、一体いつになったら巨大ピラミッドは完成するのか?そんなことをしていたら人生が終わってしまう。私たちは何か目的があってピラミッドを建造したいわけですよね? よもや、「いや、組み立てる作業そのものに意義があるのだ」などと言い出すのではないだろうね。それならあなたは古代エジプトの奴隷と同じだ。彼らはピラミッド建造作業にあたることで生存を許されていたのであり、それ以外の人生体験は何もなかった。そのピラミッドの完成より早く自分の寿命が尽きてしまうし、完成できたとしても、組み立てたピラミッドに自分が住めるわけでもない。彼らは、まさに組み立てることそれ自体に人生の意義を見出すしかなかった。それゆえに奴隷と呼ばれる。私は私自身を奴隷にしてはいないだろうか。茫漠の砂漠のなかで永遠に完成することの無い巨大ピラミッドを、逐一積み上げる、干からびた奴隷ではないか。

この、物事に際してのレンガ的発想は左脳の性質で、それとは反対に、最初にピラミッドとしての機能に目を向けて、あとからその構成物の純度をじんわりと高めていくのが右脳の性質であると理解しております。

つまり私は右脳が弱い。効き目は左で、元々は右脳が強くて、絵とかも得意でしたし、性格も理屈っぽさとは対極に位置しており、屈託のない、純粋で素直で明朗快活でムードメーカー的な存在でした。

今では、左脳廃人です。その左脳も、OSの破損・レジストリの破損によりループエラーを起こして、今ではまともに機能しておりませんが。

絵を描きたい?それはそれは素晴らしい。

ぜひ、そうした方がいい。自分への救済となるでしょう。しかし、そもそも考え方から治していかないといけませんね。

たとえば最近わたしは動画編集を始めてみたのですが、夜遅くまで作業していたり、そうかと思えば、急にやる気を失って、一切パソコンに触らなくなるということがあります。この現象がなぜ起きたのかを考えてみますと、そもそも私は動画編集自体には興味が全くなく、動画を通して単に自分の絵を外に表現したかっただけなのです。

しかし私の脳内では先述の「ミラミッド思考」による循環参照エラーが起こり、次のように考えてしまったようです。

「まず動画編集技術を一定値まで高める(=レンガを作る)。そのうえで、絵の動画の投稿を自動化させる(ピラミッドを作る)」

これにより砂漠の奴隷バイアス(造語)に陥ってしまっていました。「何かを準備して、それがある程度整ったら、本来の目的に移る。」という考え方は全てこの間違いです。

そういうことだからMPが枯渇して、レベル上げができないのでしょう。

絵の動画なんて現時点で可能な範囲でさっさと投稿してしまって、動画の勉強なんて同時進行で毎日少しずつ、絵と一緒に勉強していったらいい。今日だって、午前中に動画編集をしていて、午後も動画の作業をしたかったのですが、自分の思考の誤りに気付いて、無理やり我慢しました。動画編集ばかりそんなに頑張っても、コストが悪すぎる。それは直ぐに伸びないし、時間が長引くほど生産性も落ちる。第一仮に完璧な動画編集技術を身に着けたとしても、そこからさらに今度は別のレンガを求めることになってくる。永遠に終わりがない。動画のレンガの次は、絵の動画である以上、絵のレンガということになるのか?そうとは限らない。

絵のレンガを作るには、絵以外の生活上必要となる別のこと、たとえば料理のレンガであったり、建設的な趣味のレンガであったり、モノの考え方のレンガであったり、色々なレンガが相互に絡み合って全体として1つの「生きる力としてのレンガ」が存在している。個々のレンガだけを個別に頑張っても、その個々さえもどこかで限界がきてしまう。

だから、絵や動画に限らず、色々なことを少しずつ継続していった方がコスパがよい。

だから今日、午前中で動画作業を(無理やり)切り上げたのは正解でした。また、絵1つとってみても、絵には色々な関わり方があります。そこでも、またしても私は「レンガバイアス」に陥ってしまうんですよね。たとえば「短時間スケッチを集中的にやって画力を底上げしてから、つぎにキャラクターの絵を描く」とか、「今これをやって基礎力をつけて、いつか色塗りを勉強する」とか。全部が何かの準備。そしてその準備は半永久的に終わらないうえ、MP消費コストがデカすぎる。理想に生きているけれども現実世界で自分がいる場所が砂漠だからね。理想という名の妄想をすこし止めてみたほうがいい。砂漠のミイラならミイラらしく、ミイラなりに、今できることを無理なく少しずつ、色々やっていった方が、最終的に現実世界を理想に近づけられる。

そんなことを考えていましたら、

昔読んだ本のことを思い出しました。

「小さな習慣。 スティーブンガイズ著」

という題です。

その本ではおおむね次のような主張でした。

「毎日15分でもいいから何かを続けてごらんなさい。一度習慣化すれば潜在意識に刷り込まれ、あとは自動化され、意志力が必要なくなります。だから目標を大きくせず小さく考えなさい」

当時は「成程」と思いましたが、結局、今の今まですっかり忘れている。ブログを描いてる途中で今ようやく思い出せました。

やっぱり実体験や、自らの内省によって得た気づきの方が、書物の100倍の価値がありますね。そして多分そのことは、絵にも、動画の勉強にも、それ以外のことにも言えるでしょう、何かを完璧な情報(=レンガ)として与えられるより、自分で手さぐりに土をいじっていって、自分なりに経験で学んでいった方がいい。そして経験を重ねるには、RPGゲームの経験値稼ぎと同様にして、MPコストに気を配った方がよい。(もっとも体力がなければMPどころかゲームオーバーだから夜は夜更かしせず早めに寝よう)という話でした。ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

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