人生とギャンブルにおける共通性について

ある本を読んでいて、どうしても納得のいかない言葉を目にしました。

曰く、

「人生はサイコロを振り続けて特定の出目の数を増やすようなもの。だから、成功者は誰よりもサイコロを振るという試行回数が多かっただけ。貴方が不幸であるのは、サイコロを振った数が少ないから。」

私はこれには納得できなかった。

何回も同じ条件でサイコロを振れるだろうか?そして、人それぞれ与えられているサイコロはそもそも同じものだろうか?出目が悪かった時に何を失うだろうか?

人生は麻雀とは比べ物にならないほど不条理で、理不尽で、不公正であると私は観測しています。悲しいかな、現実がそうなっているのであり、いわゆる「引き寄せの法則」などは新興宗教の類いであり、結果論に過ぎないと私は考えます。

だからサイコロを振るというようなギャンブルと人生は同じ、すべての結果は自ら招いた自己責任と言われても、少し思うところはあります。

けれども、確かに、ギャンブルと人生のなかに共通点が多いことも認めざるを得ない。

たとえば、麻雀と人生の関係はどうでしょうか?

趣味で始めた麻雀ですが、理不尽さに耐えられず私は挫折してしまったんですね。

どうしても運が絡むので、本質的に不条理なゲームです。

だから必ずしも間違いのない選択をしても、負けが続くということはあります。

最善の選択をしてサイコロを振り続ければ、長期スパンでは必ず勝率は上がるはずです。

しかし人間は機械ではないから、負けが続けばサイコロを振ることを諦めてしまう。そして諦めてしまうという行為だけを切り取ってみれば、確かにそれは精神力の問題であり自己責任といえます。

私の場合は、あまりにも理不尽なことが続くと、感情的になり自暴自棄となり、ノータイム早打ちをしてしまう。これは非常にマナーに欠ける行為であると同時に、ミスを誘発するので、自己破壊的な自殺行為であるともいえます。その結果負けたとしても、成程、確かにそれは自己責任であり、誰のせいにもできない。

そして私は麻雀に挫折しました。たかが麻雀、たかが趣味といってしまえば、それまでかもしれません。確かに本質的にギャンブルではあります。

しかし、麻雀の理不尽さに耐えられないということは、人生の理不尽さにも耐えられないということになるのでしょう。麻雀の理不尽さに対して私が振舞う行動はすべて、人生の理不尽さに対しても同様の態度として表れるのではないかと、思うのです。

実際、私は人生における様々な不条理に対しても「拗ねて」おり、「自暴自棄」で「攻撃的」で「感情的」になっている節があります。

それを誰かが慰めてくれるならば良いのですが、誰も助けてはくれませんから、自分で自分の心を救い上げるしか、ありません。自らを己自身で導いて、心のわだかまりを納得させ、またサイコロを振ることを続行しなければなりません。

ギャンブルでも人生でも、大切なことは、「負けが続いても、自暴自棄にならないこと。拗ねないこと。いじけずに、サイコロを振り続けること」であるわけです。

一体どうすれば、そんなことができるようになるのか?人間は機械ではないのに。

その参考例として麻雀強者の発言を思い起こしてみました。そのまま抜粋します。

「麻雀は理不尽なゲーム。かけた努力と同等の対価を求めようと思えば心が折れますよ。恋愛でも一緒かもね?私はこんなに愛してるのに、私はこんなにがんばっているのに、って。でもそれを言っちゃあおしまいだ。時間と労力に対してわりに合うか、なんて麻雀でも恋愛でも考えたくもないですね。」

この部分で伝わってくるのは、2つのことです。1つめは「人一倍、努力を重ねてきたんだなぁ」ということ。しかしこれは私には届かないです。なぜなら、私に言わせれば「周りにお膳立てされたうえでの努力だろう?努力のスタートラインに立つことさえ許されなかった人間の気持ちがわかるか。恵まれた人は、そういう状況をそもそも知らない。一方、お膳立てがあれば、食事や水分補給やトイレを我慢して死ぬ気で頑張ることくらい実は誰でもできる。」という話なんです。発展途上国の人というのはその分かりやすい一例です。彼らが私を妬むなら、その妬みを私は受け入れて共感します。彼らの存在が本質的に人生の不条理性の反映であり、彼らの前で自己責任論を持ち出すことは相手に死ねと言っているようなものです。

そして2つめに読み取れることは、「この人は本当に麻雀が好きなんだなあ」ということです。それが好きだから、理不尽さがあっても耐えられる。人生の本質。この2つめの要素に関しては、私の心にも届く気づきです。

「これが好き」というものがあれば、理不尽さにも耐えられる。それを受け入れて、また前へ歩みを進めていける。

何かが好きという感情は、棺桶に入るまで、生涯大切にすべき宝物(ギフト)だなぁと。

私は人生の中で、何か好きなものはある?と自分に問いかけてみたとき、
絵は好きだから、絵のことで嫌なことがあっても、受け入れられるでしょう。

けれども、ふと思ったのです。

「人生」に対してはどうだろうか?と。
絵のことでは理不尽と向き合っていける。
なぜなら絵が好きだから。

しかし、「人生」に対しては、理不尽さを受け入れられない。
なぜなら、「人生」が好きではないから。生きることが好きではないから。

生きることはクソだと私は思っているので、

そのなかで起こる1つ1つの理不尽に、どうしても感情的に反応してしまう。普通の人の様には受け流せないのです。正面から受け止め、自分が受けた理不尽の意味をじっくり考えこんでしまい、復讐したいという気持ちに駆られてしまう。そうなると、鉄仮面を被って機械的にサイコロを振り続けるという「数学的で合理的な選択」を取り続けることができない。なぜなら「拗ねている」から。「いじけている」から。「キレている」から。感情がバクハツしているから。

自分に与えられたクソったれなサイコロを粉々に破壊したうえで、他者や世界や神様に呪いの言葉を吐き捨ててしまう。それが私という人間の、偽りないありのままの姿であるように思います。

でも、もしかしたら、人生と絵は同じものであるのかもしれない。

絵と人生を分けてしまっているが、もし本当に絵が好きなら、人生も好きということになるのかもしれない。絵が好きという気持ちが足らないから、人生に対しても感情的に反応してしまっているのかも、しれません。

だから、私はいま、もっともっと絵のことが好きになりたいです。自らの「これが好き」という小さな心の声に、これまで以上に耳を傾けていきたい。この気づきだけが、いま私の心に届く言葉です。それ以外の他人のお説教や批判は、何も私に届かないです。

そして先ほどの例の麻雀ですが、こちらも、上記の気づきの戒めとして、挫折のガラクタ山から拾い起こし、もう一度、少しずつ向き合ってみたいと思います。今度は、もう少し地道に、誠実に。

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