当初、私は、ボイストレーニングに対して、自我があった。
つまり、
声を良くすることを通して、孤独を脱して誰かに好かれようとか、
気に入られたい、であるとか、自分に自信を持ちたいであるとか、
そういった、動機、外的動機付けのようなものがあった。
そうした悪い意味での自我、といった部分が、
徐々に抜けていって、
今はただ、純粋に、自分の声、ひいては自分自身が、
どこまで良くなるんだろう?
どこまで、声を、自分自身を、よりよくしていけるのだろう?
人間の声は、そして人間そのものは、どこまでより良くなっていけるのだろう、という好奇心、
知的好奇心、
探求心、
生命に宿る何か本質的なものへの回帰本能?
のようなものが芽生え始めてきた。
これは…良い意味で、自我が抜けてきている。
悪い自我が消えて、良い自我が強化される兆しがある。
ボイトレにおいてこれを感じ始めてきている。
これ、ボイトレに限らず、おそらく絵や、なんならゲームに至るまで同様に重要なことなのだろうか?おそらく。人生も、きっとそうなのだろう。
この気持ち、これはなんだろう?
うまく言葉で説明できない。
たぶんこの境地に早めにたどり着かないと、絵も成功できないだろうな。
いま、病気と薬の副作用で、のどがつぶれてしまったが、
そんななかでも、たとえ、これまでのように声が出せなくとも、
ただ、自分の主体的な好奇心から、
俺は1日も休まずにボイトレをつづけている。
そのようにしているうちに、喉や声の調子も、私の努力に応えようとしてくれている気がする。ドアをノックし続ければ、運命は扉を開く。
まえに、女性の人と通話したときに、
「あなたの声は癒される」と言われたことがある。
俺は、そのとき嬉しいと感じ、「もっとトレーニングを頑張ろう」と感じたものだ。だが、今はどうでもいいんだ。もう。
病気で喉はつぶれてしまった。治るのかもわからない。もう、「あなたの声は癒される」とは言ってもらえないだろう。それでも、俺のボイストレーニングへの知的好奇心・探求心の炎がもはや弱まることはない。
誰に嫌われてもいい。どう思われてもいい。評価されなくてもいい。
今はただ、探求したいから。宇宙や、自分と、対話したいから。
俺は今日も、日課のボイストレーニングをサボらなかった。
いま、この瞬間、ボイトレをしている1秒1秒、俺は満たされ、成仏している。孤独なのに。結果も出せていないのに。現実のなかの雑多な問題が山積みなのに。そのようななかでも、ボイトレをしている瞬間、宇宙に意識が同調し、気持ちが救われている。
一日でも早く。絵も、この境地に。
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