道の大切さについて

皆さんは麻雀を知っていますか?

今自分に何が足りないかということを、麻雀を通して1つだけ学ぶことができたため、これから論じてみたいと思います。

私も最近まで麻雀を知らなかったのですが、知人に勧められ始めました。

麻雀というと、なんだか下品な感じがして、これまで敬遠してたのです。

実際、下品なプレイヤーが多いし、ルールもかなりギャンブル性が高い。

麻雀というゲームにおいて私は、当初、ただ勝てばいいと思っていました。「勝つためなら、ルールの範囲内で、どんな手段を使ってもいい、藁にもすがる」、という考え方でした。目をギラギラさせ、「泥にまみれてもいい、見苦しくとも構わない、実利を掠め取るだけ」と考えていました。そのようなやり方で中級までは伸びたものの、大きな成長というのがなく、いずれどこかで壁にぶつかるだろう(いや既にその壁にぶつかっている?)という不安が残っています。精神的にも事務処理をしているようでどこか満たされない。満たされないからまたネット麻雀をやろうとする。負けたら怒り、勝っても(内実が伴わない勝ち方だから)足りない。まさにギャンブル中毒一歩手前でした。

しかしそれは、麻雀に向かうときだけでなく、人生全般に対する私自身の基本的な姿勢であるのでしょう。それが麻雀というゲームにも反映されているに過ぎない。とにかく合理的、合理的に、悪く言えば「狡猾に」に動いてしまう。相手のミスを誘うため無意味に鳴くことで海底をずらしたりとか、対局者が回線落ちしてから復帰するまでの間に、相手を待たずに早打ちして相手の残り持ち時間を減らす等。

合理的であるということは、とても良い事ではあるけれども、真に合理的であるためには、時に、一見して不合理に見える振る舞いをしないといけないタイミングというのがあると私は気づきました。麻雀を通して。

そのことに気づいたのは、とある麻雀プロの方のホームページを読んだことがきっかけです。そのホームページでは、「麻雀道」なるものが観念的に説かれていました。その論調は、「麻雀においては勝つことよりも品格・品性・道徳が大事である」というものです。私は当初、それを鼻で笑いました。

「負けたら何もない。精神論より確率だ、合理性だ。精神論で自己陶酔をしているだけです。麻雀などという、所詮はギャンブルに過ぎない低俗なゲームごときで、偉ぶらないで」と。

しかし、その麻雀プロの方のサイトを読んでいくうち、どういうわけか、惹かれるものを感じたのです。

確かに、その方の言っていることはメチャクチャです。「牌(麻雀のコマ)に愛される人間にならないと強くなれない」とか、「牌に感謝の気持ちを持て」とか、「牌に大自然の意志が宿っている」など。

しかしそのメチャクチャな言葉の数々を、私はよく考えてみたのです。その結果、こういう精神論(宗教観にも似たもの)というのは、麻雀の上達のために実は本当に大事なことなんじゃないかと、思い至りました。

考えてもみて下さい、

麻雀は本質的にはギャンブルですが、打ち筋を洗練させていくことによって確率に干渉することはできます。だから努力を続けていかないといけないものです。そして努力とは、長い間コツコツと一定の労力を注いでいく必要があるものです。

しかし、麻雀というものが本質的にギャンブルである以上、喩え自分に非が無い場合でも時には不運が続いたり、プレイヤー同士の人間関係におけるストレスがあったり、感情に走り合理性を逸した打ち筋になって大負けするなど、当初の合理的な心を保ったまま長く続けていくには難しいゲームです。

こうして麻雀というものを長期的スパンで観ていくと、短期的目線では意味を為さない(むしろ逆効果の)観念論が、意味を持つようになってくる。

たとえば「対戦相手に敬意を払う、感謝の気持ちを持つ」という考え。これは一見して精神論のようだが、感謝の気持ちは怒り・焦り・不安や緊張といった脳のストレスレベルを下げてくれるので、ひいては自分が対局中に論理的思考がしやすくなることに結び付く。

「牌(麻雀のコマ)を愛し、どんな牌にも感謝し、また牌に愛されるような自分になる」というような精神論、こういう感謝の気持ちも役に立つだろう。そういう気持ちがある人間は、喩えマナーの悪いプレイヤーと出くわしても、喩え不運が続いて10連敗しても、直向きな気持ちや冷静な思考が揺らぐことはなく、それゆえにミスも少なく、与えられた運はよく活かし、不運はそれ以上拡大させず、そして(漸進的ではあっても)「毎日一定の努力」を安定して麻雀に向けていけるだろう。そして「毎日一定の努力」こそが結局は、運や才能以上の大きな力になる。ならば、精神論は一番大切と言っても過言ではないということなのですね。

私がここで言いたいことは、麻雀がいかに素晴らしいゲームかという話ではない。むしろ今でも麻雀はギャンブルだと私は個人的に思っています、良くて医療用大麻のようなものと思っています。(このように思ってしまう時点で私はまだ麻雀道を歩めていないという見方もできますね笑)

しかし仮にそのようなゲームであっても、自分の態度が正しいものであれば上達していくし、そうでなければ結局は道は閉ざされる。

ならば、麻雀(ギャンブル)以外のもう少し確実性の高いこと、たとえば、日常生活や絵のことにも言えるはずです。ここでいう「正しい態度」とは何か?それは先ほどの麻雀の喩えで言えば、ある種の宗教観、信仰と呼べるようなものかもしれません。

その麻雀プロの方は向かい合う他のプレイヤーどころか、麻雀のコマ(牌)にまで愛着を持っていて、なんというんでしょう、心の内側に世界観ができていて、彼のなかでマクロコスモス(世界に対する畏怖)とミクロコスモス(麻雀)が概念的に統合されている。左脳的にみれば単なるプラスチックのコマにしか過ぎない麻雀牌に、畏怖(愛?)を抱いていて、それに対してはどこまでも誠実で真剣である。

そういう態度で、絵や、他のことに向き合えば、その人が麻雀のプロとなったように、私も人生のプロになれるはずです。ちょっと観念的すぎるかもしれませんが、要は合理性だけではないということなんです。

私は前回の投稿で、「他人を救うためには先ず己を救わないといけない」と述べました。しかし、さらにそこからもう一歩踏み込んで、より深い気づきを次の一言で集約します。

「自分、あるいは他人を救おうとする前に、まず目の前のことに畏怖しよう(愛そう?)」

麻雀道というものがあるように、絵にも絵道があり、日常生活にも日常生活道というものがあり、自分の運命にも自分の運命道というものがあるはずである。その道を気持ちの面で裏切らないことが大事なのかもしれません。ある意味、人生もギャンブルですしね。私は麻雀と人生を同じもののように喩えるのが大嫌いなのですが(人生は麻雀と違って選択肢は14個だけではないし、また一度切った選択肢は基本的に取り戻せないし、1位以外は得点できないというルールは人生にはないし)、けれどもやはり似ている部分もあって、人生も麻雀も、基本的に無機質なギャンブル要素があります。ただそれに携わっているだけで、自然な流れとして必然的に人は荒んできます。必然的に歪んでいき、腐っていく。麻雀打ちはやがてタバコと酒と賭博しながらイライラと麻雀をするようになり、サラリーマンはやがて週刊誌で他人の不幸を血眼に探すことが楽しみになる。だからこそ人生も麻雀も「道」が必要であるのだと。そのようなギャンブル性の中でも成長していけるために。

しかしその「道」が前提からずれていることもありますが…

たとえば受験英語なんかそれ。受験でしか役に立たないのに「受験英語道」なんて前提からして空虚すぎるでしょう。そこは単に「英語道」でいいわけです。麻雀道だって「役満道」「三色同順道」なんて言わずに「麻雀道」でよいのと同様です、「囲碁と将棋もやれ」とまでは言いませんが。絵にしたって、喩えば、「美少女イラスト道」じゃなくて「イラスト道」でよいでしょう。つまり何を言いたいかというと、たとえば生活上、何か抱えている問題があって、それを改善したいときに、その改善したいことだけを個別に考えるのではなくて、生活習慣全体で捉えて、生活道として「道」を打ち立てなければならない。「道を大切にする」と今ここで決めることだ。とにかく何でもいいから、小さなことでもいいから、目の前のことをしっかり一生懸命やる。そうすれば、エネルギーが内側から湧いてきて、他の上手くいかないことも上手くいくようになってくるはずだ。

生活習慣道とはなにか?生活への感謝の気持ちや畏敬の念というものがあるとしたら、それはどこから生ずるのか?それは、食べ物への感謝の気持ち、扶養家族への感謝の気持ち、社会への感謝の気持ち、といったところまで概念を広げて初めて生じてくる。自分が見えない範囲の世界を心の眼で見る。難しいですが、道については絶えず自問していきたい。英語で「贈り物」をpresentと言いますが、presentは「現在」という意味でも使われています。「今日という一日は神様からの贈り物」という感謝の気持ちが語源なのでしょう。一日一日、一瞬一瞬、感謝の気持ちで過ごしていきたい。

話を戻しますが、絵、イラスト道というのはどういうものかとふと考えてみました。

絵を神様として信仰することはなかなか難しいものがありますが、私は人の優しさであったり人と人の繋がりに飢えているので、絵を友人や家族のような存在として見なし、感謝の気持ちを忘れずに向き合っていきたいです。友人や家族にお早うやお休みをやさしく告げるかのように朝も夜も向き合っていきたいです。私が思うには、先述の麻雀プロの方もそうした気持ちで麻雀と向き合ってこられたのではないでしょうか。まあ実際、そうしたプロ一人知ってますし。とある女流麻雀プロの方は子供のころ両親が離婚し、いつもさみしい思いをしていたが、両親が離婚する前、家族全員でマージャン卓を囲んでいた記憶があることから、彼女にとっては麻雀=家族や友人そのものだったと考えられます、そんな人がプロになるのも納得です。

※ここでいう道とは中国の3大宗教の1つである「道(タオ)」のことを特に意味していません。ただ麻雀が中国発祥であることと、麻雀道という言葉が使用されていることは偶然ではないかも。麻雀などというギャンブル性の高い理不尽ゲームと、古代中国のどうしようもない穢土から紡ぎだされる哲学…自然と考え方が似てくるのもうなづける

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